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パラオ
2007/04/07 11:39:25 書庫 全般
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この旗..どこの国の国旗だと思いますか?

東京から南に3,000km、フィリピン-ミンダナオ島の東側にある、美しいサンゴ礁に囲まれた...人口、わずか2万人の小さな国、『パラオ共和国』の国旗です。

パラオ共和国は、戦後...国連-アメリカによる信託統治-ミクロネシア地域の統一国家を経て、1994年に独立し国連加盟を果たしました。

パラオと日本...実は大きな繋がりがあります。

第1次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議にて、それまでドイツ領であったパラオは、日本の委任統治領となり、1945年の敗戦までの30数年間にわたり、パラオを統治しておりました。パラオ諸島の中心地コロールには、日本の南洋庁が置かれ、多くの日本人が移住してます。

パラオが独立した際の大統領は、日系人のナカムラ・クニオ氏で、現在でも、パラオ国民の多くが、日本に由来がある名前をつけている人が多く、日本の文化が今でも残っているそうです。

そして...青地に黄色の日本の国旗に良く似たパラオの国旗は、日本の「日の丸」に対して「月の丸」と言われ、独立時にパラオ国民から応募された国旗のデザインのコンテストで、多くのパラオの人々が親近感を持っている日本の国旗に近い青地の黄色の丸の国旗が選ばれたのだそうです。

国旗の青地は、太平洋の海の青、そして中央から少しずれた黄色の丸は、収穫や自然の循環、年中行事に重要な役割を果たしている月を現しています。

なぜ...パラオの人々は、日本に対して、このような親近感を持っているのでしょうか...

第1次世界大戦後、日本の委任統治となったパラオに、稲作や、なす、きゅうりなどの野菜、サトウキビ、パイナップルなどを持ち込み、缶詰めやビールなどの工場をつくり雇用を創出し、道路を舗装し橋をかけ、電気を通し、電話を引くなどのインフラ整備も積極的に行い、住民全てに対して、数種の疾病に対する予防接種を受けさせました。また、公教育をパラオの子供達に受けさせております。

そして、第2次世界大戦で、国際連盟を脱退した日本は、引き続き、パラオの統治を続けておりましたが、アメリカとの戦闘が激化...パラオも日米の戦いの場となってしまいました。

日本軍パラオ守備隊..1万2,000人に対し、アメリカ軍の兵力は日本軍の14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍もの軍事力で、パラオの日本軍を壊滅させようと、その矛を向けて迫ってきました。

日本人を慕っていたパラオの人々は、日本人と共に米軍と戦う覚悟をしておりましたが、日本軍は、米軍の侵攻が間近に迫ると、パラオの人々を戦火の及ばない島に避難させ、日本軍だけで米軍と戦い...そして、玉砕しております。

その時の様子を現した毎日新聞に掲載されたコラムがあるので紹介します。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという、
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…見せかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

そして...日本軍と米軍との戦闘が終わった頃...パラオの人々が、島に戻ると、玉砕した日本軍戦死者の遺体が、島の至る所に横たわっており、それを見たパラオの人々が一様に涙したそうです。

戦後...日本の委任統治に代わりパラオを統治したのはアメリカでした。

アメリカは、日本統治時代、日本が整備したインフラをことごとく取り壊し、整備された道路も剥ぎ取り、日本形式の神社も取り壊しましたが...パラオの人々は、玉砕した日本兵を供養しようと、神社を再建し、土に埋もれた多くの日本兵の遺骨を収集しました。

今でも、まだ供養されない日本兵の遺骨が、土の中に埋もれ、また洞窟の中に埋もれたままになっているそうです。

1982年に建立されたぺリリュー神社の境内には、敵国だった米軍太平洋司令艦隊のニミッツ提督の次のような言葉を刻んだ詩碑があります。

『諸国から訪れる旅人達よ、この島を守るために日本軍人が、いかに勇敢な愛国心をもって戦いそして玉砕したかを伝えられよ』

戦後...日本は、戦後の復興に邁進し、パラオの島々を忘れ去ってしまいましたが、パラオの人々は、日本に対する想いを忘れることはありませんでした。

1994年...パラオは晴れて「パラオ共和国」として独立を果たしますが、その独立式典には、各国の元首からの祝電、アメリカ海兵隊による祝賀パレード、台湾をはじめとする周辺アジア各国からの民間訪問団と民族芸能の披露があり...独立を祝う世界各国の色とりどりの国旗の中に...

...日本の国旗はなく、日本国首相からの祝電もありませんでした...

当時の首相は、社会党の村山首相です。

パラオ銀行の創設者、増田俊男氏のホームページ『増田俊男の時事直言』によると...

この日各国の代表が振る色とりどりの国旗の中に日の丸の旗は無かった。そして全パラオ人が待ち望んだ日本政府からの祝電を読む声は遂に聞くことが出来なかった。私より何百倍もナカムラ大統領は悲しんだ。

私に同伴して式典に出席した江尻真理子氏と私は金持ちになった日本人ではなくパラオのペリリュ−島の激戦で戦死した日本兵1万2千名の精霊を代表して日本政府の無礼を大統領に深く陳謝した。

悲しみと、怒りに大統領の指がわずかに震えていた...


 


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